映画「この世界の片隅に」は「戦時中とはいえ、笑顔もある『ふつうの暮らし』を描いている」点が、よく取り沙汰される。しかし実は、作品の構図はまったく正反対だ。作品の視点は、「笑顔もある『ふつうの暮らし』の底辺にある、絶望」にある。
その視点を作者に与えたのは、戦争にまつわる体験、知識かもしれない。しかし、「『ふつうの暮らし』の底辺に絶望がある」こと自体は、戦時中に限ったことではない。
ある時代、社会状況を生きる上で、常に不条理は存在する。映画「この世界の片隅に」の主人公すずにとっては、
- 好きな人が戦争に駆り出されること
- 知らない人の嫁になること
- その夫の家族のために働かされること
- 故郷を離れること
- 好きな絵が描けなくなること
- 身体を負傷し自由を奪われること
- 敗戦を機に、それまでに信じたものが崩れること
- そして、そのために犠牲にしたものがすべて無駄だったと知ること
- 何の為に生きているのかわからなくなること
- それでも、時間は過ぎ生きつづけること
といったことだ。
これらは、かたちは違えど、戦争がなくても避けられなかったであろう、愛別離苦なのだ。私たちの生活にあふれている、不条理に似ていませんか?だから、映画「この世界の片隅に」は戦争映画ではない。普遍的なテーマを扱った作品だ。
作品は、その悲惨さを騒ぎたてることはせず、『ふつうの暮らし』を描く。そのなかには当然、喜びも楽しさがあり、言外に絶望と、えもいわれぬ寂寥感がある。その強かさに、観ている私たちは勇気づけられるのだ。
これと同じ構図を持っているのが、桜玉吉さんの「日々我人間」。2016年鉄火場だった週刊文春での連載漫画をまとめた本だ。日常を描いた、さりげないエッセイとして読んでも楽しい。
上記で映画について語ったことは、桜玉吉作品にも言える。「戦争」を「マンガ喫茶での生活」「伊豆の山荘での生活」といったユルい題材に置き換えて読んでみてください(笑)。日常のなかに、読者が勝手に、普遍的なテーマを感じる。「勝手に」とは言え、おれと同じように桜玉吉作品を読んでいる読者は絶対に、多い。
映画「この世界の片隅に」を観て、「私は戦時中に生きていなくてよかった」と感じた人には、この映画の普遍性をもっと理解していないと思う!けれど、どう感じようと自由。そして、そう感じた人のほうが、現代の日常生活の愛別離苦に神経を尖らせていない、幸せな人のような気がする。おれは、なんか嫌なことでもあったのかな。(笑)
でも、幸せな人も、桜玉吉作品を読んでから、もう一度映画を観ると、きっと違う感触があるはず。
桜玉吉「日々我人間」文藝春秋
桜玉吉「幽玄漫玉日記(kindle版)」エンターブレイン