2016-11-27

この世界の片隅に、ヒビワレ人間

 映画「この世界の片隅に」を観た。そして、桜玉吉「日々我人間」を読んだ。どちらも素晴らしかった。桜玉吉作品と合わせて読んだことで、映画「この世界の片隅に」について一般にお勧めポイントとして言われていることがあべこべである、と気づいたので主張したい。


 映画「この世界の片隅に」は「戦時中とはいえ、笑顔もある『ふつうの暮らし』を描いている」点が、よく取り沙汰される。しかし実は、作品の構図はまったく正反対だ。作品の視点は、「笑顔もある『ふつうの暮らし』の底辺にある、絶望」にある。

その視点を作者に与えたのは、戦争にまつわる体験、知識かもしれない。しかし、「『ふつうの暮らし』の底辺に絶望がある」こと自体は、戦時中に限ったことではない。

ある時代、社会状況を生きる上で、常に不条理は存在する。映画「この世界の片隅に」の主人公すずにとっては、
  • 好きな人が戦争に駆り出されること
  • 知らない人の嫁になること
  • その夫の家族のために働かされること
  • 故郷を離れること
  • 好きな絵が描けなくなること
  • 身体を負傷し自由を奪われること
  • 敗戦を機に、それまでに信じたものが崩れること
  • そして、そのために犠牲にしたものがすべて無駄だったと知ること
  • 何の為に生きているのかわからなくなること
  • それでも、時間は過ぎ生きつづけること

といったことだ。

これらは、かたちは違えど、戦争がなくても避けられなかったであろう、愛別離苦なのだ。私たちの生活にあふれている、不条理に似ていませんか?だから、映画「この世界の片隅に」は戦争映画ではない。普遍的なテーマを扱った作品だ。


 作品は、その悲惨さを騒ぎたてることはせず、『ふつうの暮らし』を描く。そのなかには当然、喜びも楽しさがあり、言外に絶望と、えもいわれぬ寂寥感がある。その強かさに、観ている私たちは勇気づけられるのだ。


 これと同じ構図を持っているのが、桜玉吉さんの「日々我人間」。2016年鉄火場だった週刊文春での連載漫画をまとめた本だ。日常を描いた、さりげないエッセイとして読んでも楽しい。

上記で映画について語ったことは、桜玉吉作品にも言える。「戦争」を「マンガ喫茶での生活」「伊豆の山荘での生活」といったユルい題材に置き換えて読んでみてください(笑)。日常のなかに、読者が勝手に、普遍的なテーマを感じる。「勝手に」とは言え、おれと同じように桜玉吉作品を読んでいる読者は絶対に、多い。


 映画「この世界の片隅に」を観て、「私は戦時中に生きていなくてよかった」と感じた人には、この映画の普遍性をもっと理解していないと思う!けれど、どう感じようと自由。そして、そう感じた人のほうが、現代の日常生活の愛別離苦に神経を尖らせていない、幸せな人のような気がする。おれは、なんか嫌なことでもあったのかな。(笑)
でも、幸せな人も、桜玉吉作品を読んでから、もう一度映画を観ると、きっと違う感触があるはず。

桜玉吉「日々我人間」文藝春秋


桜玉吉「幽玄漫玉日記(kindle版)」エンターブレイン



2016-11-20

サルトル「嘔吐」と禅とBe Here Now

■サルトルの嘔吐を、かなり丁寧に読んだ。

文字通り、暗い読書だった。生業を済ませ帰宅した後、部屋の明かりを消して、本とノートを開いた。ノートに、言葉を書きうつしたり、自分の解釈を書いたりした。

体調も悪くなった。嘔吐や吐き気はなかったが、身体がだるく頭はクラクラして、寝てばかりいた。

前半の主観描写が見事に感じた。おれの身に起こったこと、起こることが何十年も前に表現されているようで驚いた。著者の認知や思考を追体験する読書と同じく、おれの生活そのものが昔の人の生活の複製のようにすら感じた。

特に見事に感じたのは、「独りで内省に埋没して生活しているのに、知覚や認知にはしっかり社会性が残っている」描写だ。周囲の人間から断絶していると、人間が社会的な動物だとわかる。異なる文化圏、見知らぬ土地で、言葉の通じない人たちに囲まれていると、自分の社会性やコミュニケーションの様式を強く意識するのと似ている。

少し読んでは、ノートを書く。読み進めるにつれて、本を閉じてノートを書く量が増えた。書く内容は、物語の解釈から派生して、自分のことが増えた。この期間、体調はどんどん悪くなり、病院に通ったり、瞑想や坐禅を始めたりした。


■本の中で、主人公アントワーヌ・ロカンタンが公園を散歩し、多幸感に包まれる場面がある。

その場面を読んでしばらくして、おれのノートに書き連ねた思索も2回、ブレイクスルーがあり、考えが整理されてスッキリした。体調も回復にむかった。いや、服用していた薬が効いて体調が良くなり、頭がはっきりして、思考のループが終わったのかもしれない。

ブレイクスルーと同時に、おれの関心は本から離れて、禅に移った。鈴木大拙の名著を手に取った。上野の禅展や出光美術館の仙厓を観に行った。oasisの"Be Here Now"のリマスター盤を聴いた。"Be Here Now"というタイトルは、John Lennonの発言から採ったらしい。仏教や禅の思想に通じるものがある。

本は読了した。が、後半は「キミ、いつまでもウジウジしてるねえ!」という感想だ。読んだ、というより退屈しながら目を走らせた、というのが正直なところだ。名著を読んだ感想としてはずかしい気もするが、本当だからしょうがない。ま、おれの絶望や断絶も、底が浅いということかも知れない。


■今度、サルトル「嘔吐」を読み返す時は、どれだけ絶望が深いだろう、と思う。

覚悟がない時には、この3つセットで、公園の場面まで読めば、気分はスッキリ!



「嘔吐[新訳]」
ジャン・ポール・サルトル(Jean-Paul Sartre)著
鈴木道彦訳
人文書院



「禅学への道」
鈴木大拙著




"Be Here Now"
oasis