2016-12-27

「弓と禅」と、「失敗の本質」と「空気の研究」

 オイゲン・ヘリゲル「弓と禅」を読んだ。

日本に数年間滞在し、弓道に打ち込んだドイツ人の筆者が、武道の根底にある禅の思想を見い出し、とまどいながら理解を深めていく体験を書いた本だ。

語り手が、弓道の達人、禅宗の僧でないところが本書の特徴だ。シャーロック・ホームズではなく、ワトソンの視点から描かれるのに似ている。そこが、初学者にとってはわかりやすい。また、外国人が日本文化に高い精神性を見い出し、それを理解するプロセスは、日本人のおれにとって体験のできないことなので新鮮に感じた。

筆者が弓道を体得するうえでの悩みも真摯に書かれている。

筆者が一時期、弓道に悩む。その頃、師匠は「弟子にとってわかりやすい説明は何か」と、筆者の専門の哲学書を開く。結果「こんな小難しい本を読む奴には、弓道は身につかん」と放り投げた。このことを、筆者は後から聞いたらしい。これには笑ってしまった。

ただし、この本では憧憬されている「日本文化の高い精神性」の嫌な面、弊害を、日本人のおれは知っている。すぐに不要なところでも精神論を持ち出すのだ。
  • 時給で雇ったアルバイトに「真心をこめたサービス」を求める経営者
  • 数百円しか支払わない店で、サービスに文句をつける「お客様」
  • 職人技至上主義
  • やたら「生き様」を演出して切り売りするJ-POP
  • 味は大したことないのに、「こだわり」の主張がうるさいラーメン屋
戦時中の「日本軍は神風のおかげで勝つ」という得体の知れない自信も挙げられるだろう。「失敗の本質」「空気の研究」を再読したくなった。



邦訳は何種類かあるが、福村出版のが、おれには読みやすかった。



オイゲン・ヘリゲル 著
稲富 栄次郎、上田 武 訳
「弓と禅」
福村出版

2016-12-26

新宿の、夜の演説

 夜、新宿駅を歩いていると、街頭演説が聞こえてきた。ふだんなら聞き流すのだが、少しだけ気になった。

ちょうど、その日に新しく刷ったフリーペーパー「ポンコツ新聞」を、配布してくれる店に郵送したのだ。手に取ってくれるであろう、顔の見えない相手にむけてフリーペーパーを作っている自分。目の前を通り過ぎる人の流れにむけて演説する人。共通点を感じたのだ。

 街頭演説は曰く「職場で残業を強いられ、つらい思いをしていませんか。毎日、遅くまで仕事をさせられていませんか。一緒に労働環境を変えていきましょう!」そうですか。確かに、問題のある労働環境は改善が必要だ。働き方や、仕事について考えさせられるニュースが、今年もいくつもありましたね。

 でもね、その演説をやっているのが、平日の18時なんだ。演説のターゲットは、絶対にそこにいないんだ。

苦笑いをするとともに、自分のフリーペーパーもちゃんとターゲットのいる場所で配ろうと思った。



2016-12-18

琴調六夜


 来週から、鈴本の琴調六夜が始まる。楽しみにしてきた、宝井琴調さんをたっぷり聴く機会がやってきた。何回行けるかな。最近、生業が忙しいが、どうしても行きたい。

12月のおくりもの

 そのひとは、12月におくりものをするのが好きだ。

親戚や知人、友人にたくさん、おくりものを手配する。

相手の喜ぶ顔を思い浮かべ、「そろそろ封を開けた頃かしら」と心待ちにしている。

今年もたくさんのおくりものを手配した。


そのひとの元には、おくりものは届かない。ただのひとつつも。

そして、本人はそのことには気づいていない。

自分のことを不幸だと思ったことはないのだ。


2016-11-27

この世界の片隅に、ヒビワレ人間

 映画「この世界の片隅に」を観た。そして、桜玉吉「日々我人間」を読んだ。どちらも素晴らしかった。桜玉吉作品と合わせて読んだことで、映画「この世界の片隅に」について一般にお勧めポイントとして言われていることがあべこべである、と気づいたので主張したい。


 映画「この世界の片隅に」は「戦時中とはいえ、笑顔もある『ふつうの暮らし』を描いている」点が、よく取り沙汰される。しかし実は、作品の構図はまったく正反対だ。作品の視点は、「笑顔もある『ふつうの暮らし』の底辺にある、絶望」にある。

その視点を作者に与えたのは、戦争にまつわる体験、知識かもしれない。しかし、「『ふつうの暮らし』の底辺に絶望がある」こと自体は、戦時中に限ったことではない。

ある時代、社会状況を生きる上で、常に不条理は存在する。映画「この世界の片隅に」の主人公すずにとっては、
  • 好きな人が戦争に駆り出されること
  • 知らない人の嫁になること
  • その夫の家族のために働かされること
  • 故郷を離れること
  • 好きな絵が描けなくなること
  • 身体を負傷し自由を奪われること
  • 敗戦を機に、それまでに信じたものが崩れること
  • そして、そのために犠牲にしたものがすべて無駄だったと知ること
  • 何の為に生きているのかわからなくなること
  • それでも、時間は過ぎ生きつづけること

といったことだ。

これらは、かたちは違えど、戦争がなくても避けられなかったであろう、愛別離苦なのだ。私たちの生活にあふれている、不条理に似ていませんか?だから、映画「この世界の片隅に」は戦争映画ではない。普遍的なテーマを扱った作品だ。


 作品は、その悲惨さを騒ぎたてることはせず、『ふつうの暮らし』を描く。そのなかには当然、喜びも楽しさがあり、言外に絶望と、えもいわれぬ寂寥感がある。その強かさに、観ている私たちは勇気づけられるのだ。


 これと同じ構図を持っているのが、桜玉吉さんの「日々我人間」。2016年鉄火場だった週刊文春での連載漫画をまとめた本だ。日常を描いた、さりげないエッセイとして読んでも楽しい。

上記で映画について語ったことは、桜玉吉作品にも言える。「戦争」を「マンガ喫茶での生活」「伊豆の山荘での生活」といったユルい題材に置き換えて読んでみてください(笑)。日常のなかに、読者が勝手に、普遍的なテーマを感じる。「勝手に」とは言え、おれと同じように桜玉吉作品を読んでいる読者は絶対に、多い。


 映画「この世界の片隅に」を観て、「私は戦時中に生きていなくてよかった」と感じた人には、この映画の普遍性をもっと理解していないと思う!けれど、どう感じようと自由。そして、そう感じた人のほうが、現代の日常生活の愛別離苦に神経を尖らせていない、幸せな人のような気がする。おれは、なんか嫌なことでもあったのかな。(笑)
でも、幸せな人も、桜玉吉作品を読んでから、もう一度映画を観ると、きっと違う感触があるはず。

桜玉吉「日々我人間」文藝春秋


桜玉吉「幽玄漫玉日記(kindle版)」エンターブレイン



2016-11-20

サルトル「嘔吐」と禅とBe Here Now

■サルトルの嘔吐を、かなり丁寧に読んだ。

文字通り、暗い読書だった。生業を済ませ帰宅した後、部屋の明かりを消して、本とノートを開いた。ノートに、言葉を書きうつしたり、自分の解釈を書いたりした。

体調も悪くなった。嘔吐や吐き気はなかったが、身体がだるく頭はクラクラして、寝てばかりいた。

前半の主観描写が見事に感じた。おれの身に起こったこと、起こることが何十年も前に表現されているようで驚いた。著者の認知や思考を追体験する読書と同じく、おれの生活そのものが昔の人の生活の複製のようにすら感じた。

特に見事に感じたのは、「独りで内省に埋没して生活しているのに、知覚や認知にはしっかり社会性が残っている」描写だ。周囲の人間から断絶していると、人間が社会的な動物だとわかる。異なる文化圏、見知らぬ土地で、言葉の通じない人たちに囲まれていると、自分の社会性やコミュニケーションの様式を強く意識するのと似ている。

少し読んでは、ノートを書く。読み進めるにつれて、本を閉じてノートを書く量が増えた。書く内容は、物語の解釈から派生して、自分のことが増えた。この期間、体調はどんどん悪くなり、病院に通ったり、瞑想や坐禅を始めたりした。


■本の中で、主人公アントワーヌ・ロカンタンが公園を散歩し、多幸感に包まれる場面がある。

その場面を読んでしばらくして、おれのノートに書き連ねた思索も2回、ブレイクスルーがあり、考えが整理されてスッキリした。体調も回復にむかった。いや、服用していた薬が効いて体調が良くなり、頭がはっきりして、思考のループが終わったのかもしれない。

ブレイクスルーと同時に、おれの関心は本から離れて、禅に移った。鈴木大拙の名著を手に取った。上野の禅展や出光美術館の仙厓を観に行った。oasisの"Be Here Now"のリマスター盤を聴いた。"Be Here Now"というタイトルは、John Lennonの発言から採ったらしい。仏教や禅の思想に通じるものがある。

本は読了した。が、後半は「キミ、いつまでもウジウジしてるねえ!」という感想だ。読んだ、というより退屈しながら目を走らせた、というのが正直なところだ。名著を読んだ感想としてはずかしい気もするが、本当だからしょうがない。ま、おれの絶望や断絶も、底が浅いということかも知れない。


■今度、サルトル「嘔吐」を読み返す時は、どれだけ絶望が深いだろう、と思う。

覚悟がない時には、この3つセットで、公園の場面まで読めば、気分はスッキリ!



「嘔吐[新訳]」
ジャン・ポール・サルトル(Jean-Paul Sartre)著
鈴木道彦訳
人文書院



「禅学への道」
鈴木大拙著




"Be Here Now"
oasis

2016-10-21

ラモーンズ「53rd & 3rd」の歌詞 (2分半で語れること)



 ラモーンズの1stの40周年記念盤を聴いてる。邦題は「ラモーンズの激情」だけど、録音はシットリ丁寧に重ねられてる。それがキラキラ輝いて、聴いていてワクワクする。

今回、初めて歌詞を読みながら聴いた。(特に初期の曲は)意味がわからずに聴いていたから、歌詞にユーモアだけでなく知性があふれていると気づいて、バンドの印象が変わっちゃった。コンセプト・アート活動だったんだね。「激情の表出」に見えていたものは、計算づくの表現だったと納得した。


 この素晴らしいアルバムの中でも「53rd & 3rd」という曲は、特に耳に残る。歌詞カードだけでは意味がわからなくて、いろいろ調べた。ネットに日本語訳詞もなさそうなので、メモしておく。
やれるもんなら やってみな
おれはベトナム帰りのグリーンベレー
おまえの作り話にはうんざり
おれはやることがあるんだ

53丁目と3番街の間 立ちんぼして 
53丁目と3番街の間 客をとる
53丁目と3番街の間 客がつかなくて
53丁目と3番街の間 みじめだろ

ようやくついた客に、おれはカミソリを向けて
とんでもないことをしでかして
警察に捕まったけど、ホモの疑いは解けた

この曲と詞を書いたのは、ベースのDee Dee。「53丁目と3番街の間」ってのは、男娼が立つ実在のスポットで、Dee Deeもヘロインを買う金欲しさに、歌詞の通り客をとったことがある、なんて噂まである。 いやはや、こんなストーリーを簡潔に、たった2分半にパッケージするパンクってすごいな。アナログも買おうかな。


2016-10-20

YOLOという名の観光地の表面

養老の滝へ行った。

YOLOという俗語を思い出す。"You Only Live Once"(人生は一度きり)と思い出しながら、この観光地を漂う。








 instagramでYOLOと連発する若者が、歳をとって養老を訪れたら、何て思うんだろう。可憐な思い出を、どんな気持ちでたどるんだ。


 あるいは、この落ち着いた観光地で生活する人たちもいるわけだ。この地で生まれ、この地で老いる。それもYOLO。


2016-10-19

架空のレコードジャケット

素敵なレコードジャケットが撮れました。
自分でもお気に入り。


2016-10-15