■サルトルの嘔吐を、かなり丁寧に読んだ。
文字通り、暗い読書だった。生業を済ませ帰宅した後、部屋の明かりを消して、本とノートを開いた。ノートに、言葉を書きうつしたり、自分の解釈を書いたりした。
体調も悪くなった。嘔吐や吐き気はなかったが、身体がだるく頭はクラクラして、寝てばかりいた。
前半の主観描写が見事に感じた。おれの身に起こったこと、起こることが何十年も前に表現されているようで驚いた。著者の認知や思考を追体験する読書と同じく、おれの生活そのものが昔の人の生活の複製のようにすら感じた。
特に見事に感じたのは、「独りで内省に埋没して生活しているのに、知覚や認知にはしっかり社会性が残っている」描写だ。周囲の人間から断絶していると、人間が社会的な動物だとわかる。異なる文化圏、見知らぬ土地で、言葉の通じない人たちに囲まれていると、自分の社会性やコミュニケーションの様式を強く意識するのと似ている。
少し読んでは、ノートを書く。読み進めるにつれて、本を閉じてノートを書く量が増えた。書く内容は、物語の解釈から派生して、自分のことが増えた。この期間、体調はどんどん悪くなり、病院に通ったり、瞑想や坐禅を始めたりした。
■本の中で、主人公アントワーヌ・ロカンタンが公園を散歩し、多幸感に包まれる場面がある。
その場面を読んでしばらくして、おれのノートに書き連ねた思索も2回、ブレイクスルーがあり、考えが整理されてスッキリした。体調も回復にむかった。いや、服用していた薬が効いて体調が良くなり、頭がはっきりして、思考のループが終わったのかもしれない。
ブレイクスルーと同時に、おれの関心は本から離れて、禅に移った。鈴木大拙の名著を手に取った。上野の禅展や出光美術館の仙厓を観に行った。oasisの"Be Here Now"のリマスター盤を聴いた。"Be Here Now"というタイトルは、John Lennonの発言から採ったらしい。仏教や禅の思想に通じるものがある。
本は読了した。が、後半は「キミ、いつまでもウジウジしてるねえ!」という感想だ。読んだ、というより退屈しながら目を走らせた、というのが正直なところだ。名著を読んだ感想としてはずかしい気もするが、本当だからしょうがない。ま、おれの絶望や断絶も、底が浅いということかも知れない。
■今度、サルトル「嘔吐」を読み返す時は、どれだけ絶望が深いだろう、と思う。
覚悟がない時には、この3つセットで、公園の場面まで読めば、気分はスッキリ!
「嘔吐[新訳]」
ジャン・ポール・サルトル(Jean-Paul Sartre)著
鈴木道彦訳
人文書院
「禅学への道」
鈴木大拙著
"Be Here Now"
oasis