■アイマスクを買った。
目にあたる部分がふくらんでいる、立体的なかたちをしているアイデア商品だ。これをつけると快適なのだが、ブラジャーを被ってるみたいでクスリと笑ってしまった。実際に被ったことはないのに。
こういう体験のない変態行為を笑えるのは、志村けんのおかげだ。「志村けんのやる変態行為」=「笑ってよい」という認識の順番だ。
■こどものころは「志村けんがおかしなことをしている」と笑っていた。
「女王様とお呼び!」とか「へんなおじさん」とか「わけがわからない行動をする人」として笑っていた。
おとなになるとわかる。切実に「女王様とお呼び!」が好きな人もいるわけだ。「へんなおじさん」も、おとなになると気持ち「だけは」わからんでもない。
もちろん「おかしなもの」に共感させる表現力のすごさもある。表現力についてつけたすと、志村けんの「ひとみ婆さん」は、ほんとに老婆に見える。こう感じさせる表現力のある人は、俳優にもなかなかいない。
■よのなかのおかしさを的確に表現できる志村けんはかっこいい、と大人になるとわかった。
要するに、こどもの頃は、わけもわからず志村けんを笑っていた。おとなになると、自分も含め「へんなおじさん」がよのなかに溢れていると気づく。
笑いの対象は志村けん個人ではなく、よのなか全体だった、ということ。映画「ボラット」にも同じことを感じた。
「へんなおじさん」ではなく、「何だチミは!」と注意していた隣人のほうが法を犯してしまった。これも同じことの暗喩のようにすら感じる。
(志村けんは、歴史上の人物と同じく普通名詞として敬称略で表記しました。)